翻訳と批評
今日は本当に久しぶりに大学に行くことすらせず、家で本を読み、少し昼寝してしまったが、中途半端に止まっていた本を読了した。
ベーク「解釈学と批判」、楠木建「好き嫌いと才能」、村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話」。
ベークはコテコテの古典文献学者で、タイトルは厳めしいが、意外に読みやすく、文献学の仕事について明らかにしている。その過程で、翻訳について気になったので、自宅の本棚で買ってから読んでなかった「翻訳夜話」を取り出して読み始めた。
一人称の選択や、文の切り方や読点の扱い方についてなど実際的な議論から、翻訳の意義について、二人のプロのやり取りはとても楽しかった。翻訳というものを、論文の必要性からすることはあるが、果たしてどこまで意識的にやっているのか、自分の作品読解にいかせる面もありそう。そもそも、ベークの本にも翻訳についての議論があった。文献学の仕事の中でかなり重要なものだ。(本気でつまらない翻訳もめちゃくちゃ多いけど。学問的に正確、って便利な言葉だとたまに思う。難しい問題だけど。)
ルターの「神の義」をめぐる「塔の体験」(多分)を思い出した。
たまにYouTubeで「BSマンガ夜話」が観たくなる。この番組は(うちにテレビはないが)レギュラーでしてほしい。マンガ好きなレギュラー3人の読みが、(賛否両論あって)面白い。夏目先生の解説はとても勉強になる。昨日は「よつばと」の回を見た。昔、先輩の家で既刊分をすべて読んだ作品。日常系の、ふんわりしたいい作品だな、という程度でしかなかったのだが、3人の議論を聞いて、そのふんわり感のなかにある「切なさ」の指摘は、読んだときに自分では説明がつかず、でも感じていた感覚を指摘されて、泣いてしまった。
評論って、やはり創作に比べられるとどうしても、一段低く見られてしまうことが多いのだが、自分にとって評論は作品の価値に気づかせてくれる、最高の表現媒体だと思っている。マンガ夜話は根っからのマンガ好きが、(あんまり一般の視聴者相手にせずに)議論しているから、作品の工夫や読みの広がりを示せているのだと思う。(だから、ゲストが中途半端な人の時は、そのコメントを聞く時間、もっとレギュラーにしゃべらせてほしいと思ってしまう。視聴者のメールやファックスも…)
明日から、連休明け。
楽しみでならない。
あばれる
勉強に対して、本当に「厳しい」環境って難しいと感じることがしばしば。
社会人になる前は、文学部はいわばモラトリアムの一種だから、となぁなぁでいいか、と思っている自分がいたのだが、今は正直言ってそれは間違いだと感じている。
では、その「厳しさ」という原理原則をほかの人に強制してもいいものか、と自問自答している自分がいるのだが、自分の中では「厳しく」したほうがいいのだろうと思っている。
根拠は
①どうせ、本当に厳しい人は少数派
②結局、社会に出た後に大学の「厳しい」なんて全く「厳しくない」ことがわかる。「ゼミは社会の模擬演習」と私の先生はおっしゃっていたが、全くその通りだと思う
③大学生の「忙しい」のレベルは「忙しくない」
④場合によっては、最終的に自分のサボタージュをどこかで後悔する時期が来る
くらいか。
特に④は自分も犯してきた後悔。繰り返してしまうかもしれない。
自分の中では、目標にしている研究室があるのだが、(まぁ、その研究室にいる人から言わせるとそれはそれで、問題も多いが)一学生の意向で、全体の雰囲気なんて変えられないのは分かっている。
しかし、だからこそ(人に迷惑をかけない程度に)あばれる価値もあるのかと思っている。確かに「文学」の研究室はなんやかんや「甘い」。理系の人の話を聴くと、なおのことそう思う。それゆえにできることもあるのだろうけど、その中で「厳しくあること」を追求する人がいてもいいと思う。
何より、自分が先生から学んだのはその姿勢だ。
(同じくらいに好きな対象に本気で取り組む姿勢も学んだけども)
厳しくすることで、いずれ他人が自分のことを評価するときに、逆に厳しくしてもらえる。そこから学べることが必ずあると思って、取り組めれば。
独りよがりなんだろうけども。
独りよがりでもそうするんだけども。
仲間が多いより、敵が多いほうがいいのかも。
連休は苦手
タイトル通り。
やっぱり長い休みは苦手。忙しい方が生産性がいいような気がする。自分が悪いのだけども。
土日も正直不要だと思ってるから、なにか外国語のレッスンでも入れようかと考えているが、それもどうなんだろう…お金かかるし。
「近現代ギリシャの歴史」もう少しで読み終わる。第3章の言語問題がやっぱり一番興味深い。古代から続いてきたがゆえに、やっぱり言語の変化の問題は、その地域にとっては大きな問題なのだと感じた。ラテン語と俗語の関係みたいに、別の言語としての歴史を歩めなかった(歩ませなかった?)事態は、古典語の今日的なあり方について考えさせるケースだろう。そういう意味で、ギリシャ語史は興味が尽きない。
合わせて思い出したことをメモ。
イディッシュ語の授業で、母語としてのイディッシュ語と、聖なる言語としてのヘブライ語、アラム語の話を聞いて、ますます興味を持った。言語体系が聖なるものと認識される過程は、あるいは古典ラテン語の復興や、近現代における古代ギリシャ語への憧憬のようなものに通じ得るものを感じてしまう。
こういうことを空想するのは楽しいものだ。
海辺のカフカ
あまり、小説読まずにここまで生きてきたので、文学部の学生としてダメだな、と思っているのだが、この連休から村上春樹「海辺のカフカ」を読み出した。
きっかけは実に外発的な必要性(不必要かも)なのだが、この小説、思っていた以上に面白い。
内容はともかくとして、言葉の重なりと、読んでいる人の言葉の意識に直に触れるような、仕掛け(?)。出来事やモチーフの単純な対応ではない、あくまでも言語的なべとつき。作品読んでると、その重なりがべとべとと読んでいるこちらの意識にまとわりついてくる。小説を読んでいる、という体験を強烈に意識させてくるのだ。それを思っていたら、また、次の一行の一語にべとつきを感じる。
このベタベタ感が、もっと上手に説明できるといいのだけども。
ポケビ
完全に方向の違うタイトル。笑
久々に聞いたら、元気出た。やっぱり名曲が多い。Green manとか。一番好きなのは赤いやつと青いやつと、紫。わかる人だけわかればいいや。20年くらい前か…署名したな…
今日は趣向をかえて、溜まりにたまった日本語文献とイディッシュ語の予習。昨日丸善行ったときに本を買ったので、それも何冊か読む。
興味深い本をメモ。
関根正雄「旧約聖書文学史」
研究文献とか、旧約聖書のヘブライ語の韻律の話題とか、知りたかったことに当たれたのは嬉しい。
楠木建「好き嫌いと才能」
本当は昨日は文学系しか買う気なかったのに、新刊の棚に楠木先生の新著、しかも好き嫌い対談…いつかのご飯を我慢しようと買った。研究室で、心折れかけたときに読むのにいい本。
佐藤茂樹「ドイツ児童書の社会史」
グリム前後のメルヘン事情がどうしても引っ掛かっていた中でいろんな人名を知った。こういうメディア研究は嫌いじゃない。
Trypanis:GREEK POETRY from Homer to Seferis
いま一番心惹かれる研究書。めっさ分厚い。けれども、楽しそうに書いてる印象がある。古代ギリシャで終わらないギリシャ文学史。こういうの、好きだ。ちなみに現行の専門には関わらない。
ギリシャ文学の研究書に元気を求めるのも、ポケビのyellow yellow happyに元気を求めるのも、自分の中では同じこと。何か、暗い気持ちになりかかったが、色々持ち直して、今日も終われそう。
明日はクラシックをきっちりと。
好きなことを全力で考える。
というわけで、1ヶ月放置!
もう、ラフに行きたい。こっちは。
この4月に決まったこと。
外国語の初級はサンスクリットとイディッシュ語、ロシア語。イディッシュ語、楽しい。
研究対象はネオラテン叙事詩。ヴィーダの叙事詩は今朝1巻読了。構文などはシンプルだが、聖書の基礎知識が自分にはまだ十分でない。とにかく2ヶ月であと5巻分のテキストを読み、夏に1度発表をする。おそらく、ウェルギリウスをある程度参照することになるだろう。
色々思うところがあり、グリムと村上春樹は少しずつ読んでおく。いつか役に立つ日が来るかもしれない。
現代ギリシャ語とヘブライ語を本気でやる状況を準備したい。自分の目標には書かせない言葉になるのは確かだから。
研究者になり損なっているが、自分の関心は間違いなく「探検的文学史」にある。作品の巧拙を判断する感性は持ち合わせていないが、無視されてきたものの価値を見いだすことには大きな関心がある。
無視の原因は、作品そのものにもあるかもしれないが、制度的な原因も絶対にある。自分の研究が「世界文学研究」の歴史的な一面を担えれば、と思っている。
Facebookのアカウントを削除することにしたので、こちらに気が向いたら書くことにする。
本格始動
今日は履修ガイダンスなど。
いよいよ一学期が始まった。正直今日は何だかんだで進められていない。反省。
明日から授業と自分の勉強時間をしっかり分けたい。
改めて頑張ろう。