古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

2週目が終わる。

ドイツ滞在の2週目が終わり折り返しとなった。今日は週末で授業がないので宿舎でだらだらして、そのあと翻訳の仕事をやって、今これを書こうと思い立った。

 

精神的に参っていたのは1週目の真ん中くらいで、周りの言っていることがものの見事にわからないので嫌になっていたが、不思議なもので(そしてよく聞く話でもあるが)2週目終わりの昨日の授業くらいでは(正確な理解をどれだけしているかはさておき)、今授業で何が進んでいて、とりあえず何をしないといけないのかくらいはわかるようになってきた。とりわけ文法の説明についてはクラスの中でも割と出来るほうらしく、しんどくなるといちいち文法の話題にならないかな、と心中で希望していたりする。

 

クラスメイトは途中で1人増えたが全部で6人と極めて小規模。かつみんな対応が大人でいろいろフォローしてくれる。ありがたい。その感謝を十分に表現することは未だかなわないが、本当に助かっている。

 

授業自体は自分のことをドイツ語で話すことから始まり、文法のエクササイズや簡単な話題での意見発表。最近では何かと「あなたの国ではどうですか?」と聞かれるので、日本の事例を話さないといけない。とりあえず「これは世界でも有名だろう」と思った話題を話してみるも、想像以上に知られていないことが多いとわかり、もしかしたらこれが現実なんだろうか、と感じた。日本国内の「日本スゴイ!」言説の危険を感じた。(これが私のドイツ語力の至らなさに原因があるとしても)

 

中でも自分の中で一番の練習になっているのが、ドイツ語の語彙をドイツ語で説明するワーク。これは最初いきなりやらされて苦しんだのだが、翌日の授業準備として自宅で語彙の復習を日本語ではなくドイツ語ですることによって、テキストや会話の理解がかなり進んだ気がする。本当は独独辞典を持っていればよかったのだが、持ち合わせていないので、自宅でまず和独辞典で意味を確認し、それをドイツ語で(その語彙そのものではなく別の語彙で)説明する作文を繰り返している。日本に帰ったら独独辞典を一冊購入しておきたい。

 

基本的に平日は午前を自分の研究と仕事に充て、昼から夕方まで授業、夜は課題と復習というルーティンでやっているので、観光する余裕はない。ただ金曜の夕方だけは街歩きを自分に許しているので、ゲッティンゲンの街をぶらぶらしている。昨日もふらふらしていた。町の中心部に位置する教会建築の巨大さに圧倒され、なぜこんな建物を建てようとしたのか、がやたらと気になった。帰国後、教会をはじめとした宗教建築についてちょっと調べてみようと思っている。

 

来週がフルに授業のある最後の週になる。ここまできたらもうひと踏ん張りで実りあるドイツ滞在にしたい。(食事は実はそんなにおいしいとは思えないが)勉強するには良い環境。十分にレベル上げをして日本に帰国したい。

今、ドイツ。

盛大に放置していたのだが、時間ができたので久々すぎる投稿。

 

2018年4月から某研究員かつ某大非常勤になり(期間限定ではあるが)自立した生活ができるようになった。数年単位でこういうのを繰り返さないといけないのが辛いところだが、サラリーマン時代よりストレスはないのでなんとかなっている。

 

さて、9月からドイツに来ている。

ゲーテ・インスティテュートのドイツ語4週間インテンシブコースを受講している。

実は人生で観光を含めてこれまで海外に出たことがなく、ヨーロッパの文学をやりながらそこが割と強烈なコンプレックスになっていたのだが、この度1か月、しかも平日はすべてドイツ語のトレーニング5時間という割とハードなプログラムに参加できたので、多少コンプレックスは和らいだ。今日は1週目を終えた週末。滞在しているのはドイツ有数の大学都市であるゲッティンゲン。フランクフルトまで飛行機でそこから2時間程度ICEに乗って到着。閑静な普通の街。ハエが多い。(ドイツ語クラスの先生も言っていた)

 

いずれは海外での研究を!とは意気込んでいるものの言葉の能力がつかないことにはどうしようもない。というわけで単身乗り込んでみたわけだが、やはり話す聞くは慣れないと難しい。クラスの中では文法は出来るほうらしいので、先生にもその点は認められているが、大事な指示が聞き取れないのはやっぱり問題だ。クラスが5人という極めて小規模なクラスでよかった。

 

今月はこのままドイツで終えて、今月末に帰国。その2日後には後期の非常勤の授業がもう始まるので全然落ち着かない。自分の勉強もやらないといけないし、非常勤先にも自分の大学にも何かと仕事は多い。まぁ忙しいうちが華と感じてやるしかない。

 

いない間日本は災害が頻発している。空けてきた下宿が大丈夫かと思っても異国の地にいるので何もできない。とはいえ何の連絡も来ていないのでおそらく問題ないだろうが。それから結構ショックなニュースもあってちょっと落ち込んでしまった。人間の人生って色々あるんやな、と…

 

午後は論文書こうかと思ったのだが、気分が緩んでしまったので(今週は心が落ち着かなかった!)、日本から持ってきた数少ない本を読もうかと思う。(ちなみに今朝はこちらで買ったRomanを読んでいた)A Companion to Late Antique Literature。結局こういう本を読んでしまう自分が悲しい気もする。

2017年の年末年始休み

大学は今日から休みに入る。ただ去年と違って、研究棟へは入りやすくなっている。去年くらいから散々やかましく言い続けてきた甲斐があった。

 

この休暇中は主に来年度の研究で中心的に扱う作品をできる限り進めて、あとは聖書ヘブライ語原典のトレーニングを行うのがメインの目標だ。それに加えて、文法は習ったが、なかなか実践する機会のなかった古典シリア語とロシア語を趣味程度にちょっとだけテキスト読む予定。あとは好きな本が少しでも読めればいいかと。

とりあえず研究室には出てきて、静かなうちにやっておきたい仕事を片付けてしまうつもりではいる。

 

会いたい人には会える休みではあるので、だらだらせずにいつも通りの生活を、いつも以上に心がけたい。予備論の審査も終わり、いよいよ本格的に博士論文の作成を視野に入れた研究と、博士論文を出した後の研究の方向性を考え始めて、その時に困らない能力を身につける努力をしないといけない。

 

こっそりアッシリア語とゲエズ語とコプト語の本を買いたい、と思っているが、何を買ったらいいかよくわからない。最近の物欲はそういう語学書の方面に向いているが、このような情報の無さのお蔭で、お金を無駄遣いせずに済んでいるのかもしれない。ああ、でもニューエクスプレスのアイスランド語は欲しい…語学書の収集は終わらない。

 

 

 

朗誦の学問への憧れ

この前9月から日課で続けていた聖書ヘブライ語の教科書を一巡した。

思えば9月にその勉強を始めて以来、ラテン語を読まない日はたまにあったが、聖書ヘブライ語を読まない日は一日も無かったくらいには継続していた。

ただ、ここで終えるのももったいないと、昨日から『創世記』を原文で読み始めた。

 

とりあえず遅々たる歩みだが、これがめっぽう面白い。新しい日課になりそうだ。

 

みたいなことを昨日の夕方に指導教官に話した。

すると今日の昼過ぎに指導教官がコピーの束を持って研究室に現れた。その束をコピーしてくるようにと指示をされたのでそのコピーを見ると、それは聖書ヘブライ語テキストの文構造に関するテキストの一部であった。

コピーをするやその場でレクチャーが始まった。

どのような秩序で、聖書ヘブライ語テキストが構成され、それがどのようにテキストに書かれているかの説明をがっつりされた。

ただ、これが想像以上に興奮を覚える内容だった。

いわゆる古典語によるテキストだが、そのレクチャーを終えてみると、明らかにそれは楽譜のように見えてきた。「声にするための」テキストとして聖書が書かれていることを強烈に認識させられた。

(今まで取り組んでいたテキストにもその言及はあったのだけれども)

 

古典語は(特にこの手の聖典の関わる言語は)口語としては使われなくても、やはり朗誦される言語としてはある。朗誦による言語の現われは、もちろん書き言葉やいわゆる会話とも違う、全く別の現われをしているはずである。

で、文化圏によってこの朗誦の技術が確かに伝承されている。

そういう知識としては知っていても、しかし、実感を持てなかった事実を再確認させられた。

 

この朗誦の伝統って、古典語文学にとってかなり大事なトピックになるはず。

明日から新しい視点をもって、『創世記』原文にゆっくり取り組みたい。

 

ああ面白かった。

ゲストスピーカーの仕事

とりあえず、先週に予備論文を出し終わった。今月の下旬に審査があるらしい。

 

で、先週と今週の金曜日に2回ゲストスピーカーとして1年生向けの講義で授業をした。

1回目は修士論文の時の研究で、2回目は現在進行中(とはいえある程度議論の方向性は見えている)の研究の話をした。とりあえず、知っている顔がほとんどいない(それでも数人は知っている顔が混じっているのだが)環境での授業は前職でも実はそんなに機会がないので、緊張こそしなかったが、色々探りつつの講義になった。

 

相手が1年生なので、専門性が高すぎる話はまずいと思いつつ、それでもゲストスピーカーなので「ゲスト」らしい特別な内容であることにこだわろうとしたが、やはり難しいことがわかった。講義は難しい。15回させてもらえれば、もっと試行錯誤できるのに。

 

ただ、1回目より2回目の方が聴く態度が前向きになっているとは感じた。メンバーが同じなのか違うのかよくわからないが、ちょっと雰囲気が前のめりになっている受講生が増えていた(気がした)。

 

大学の授業に何を期待しているのか。そもそも期待なんてしているのか。

しかも教養科目、とりたくてとっているわけでもないだろう。

ただ、広い視野の必要性は社会に出て分かった。教養教育に意味はある。

その意味をわかってもらい、期待できる授業ができないといけないのだろう。

学生も教師も互いに期待しあってない環境はおそろしく怖いもの、と私は思っているので、この現状は変えていくべきものだと思った。

 

年内、まだやるべきことは山ほど残っている。

年明けには論文2本の提出。研究発表が1件。

来年度の学会発表の要旨作成が1件。

 

忙しいけど、頑張ろう。

楽しい方法

文学をやっている割には、小説とか詩とかあんまり読んでないところが自分の中で微妙なひっかかりになっているのは事実だが、かと言ってよほど気に入ったものでない限り、小説は読んでいて寝てしまう。こういう人間が文学を研究しているのだから、不思議と言えば不思議かもしれない。

 

ただ、(一応)「研究」していると興奮することが多い。それは大体の場合、原語で読んでいる時に起こる。自分の場合はとにかく古典語なので、全くスピーディーには読めないが、たまに「あれ?」と思う箇所に出くわすとどきどきする。今日もそういう箇所にぶつかった。(こういう場だから、具体的に何の作品の、どういうところかは書かないけれども)

 

古今東西、世界中の無数の言語で、文学はさまざまに溢れているのに、「外国文学研究」を志す学生が「日本語でアクセスできるもの」を対象にしている傾向はあんまり良くない、と個人的には思っている。(もちろん、しっかり原語のテキストを踏まえて研究している人もたくさんいる。ただ、翻訳がある安心感はたぶんとても大きいのだろう。)

 

「鑑賞」や「趣味の読書」ではなく、「外国文学研究」で扱うなら(時代を問わず)全く翻訳がない作品こそ、やる意義があるように思えてならない。日本語訳が無いのは、その作品が「読むに足らない駄作」であるからではなくて、「これまでの日本語話者にたまたま知られていなかった」からであり、その中に面白い作品があることは間違いない。もちろん、駄作もあるだろうが、それは日本語の作品でだってあふれかえっているので、今更文句を言うべきものではないだろう。むしろ、その「つまらなさ」を説明しようとするところに新しい「研究」のきっかけがあったりするものだ。

スピードはなくったって、発見は必ずある。「急がば回れ」「Festina Lente!」じゃないけども、ある意味一番堅実な方法に思えている。

 

歴史の人はこの辺が(専門にしている地域時代にも依るだろうが)たぶん当たり前で、状況が必ずしも良くないテキストに日々接している。もちろん、翻訳なんてないものが圧倒的に多い。だからこそ、研究として言えることが「発見」できるのだろう。(もちろん、既に翻訳されたテキストの新解釈だって重要な仕事)

 

翻訳がある作品にだって、まだまだ研究の余地があることはわかっているが、自分にはどうも(翻訳を頼り切ってしまう怠惰さが自分自身の中にあるからだが)、「何かを見つけた!」という経験がない。これはあくまで個人的な経験則だが、あんまり自分の周りではわかってもらえない。ただ、こういった意識で毎日古典語を読んでいて、「わからない」とは思っても「つまらない」と思ったことはないので、この方向性はあながち間違っていないと思う。そして、やっぱり自分にとって楽しいと思えるのはこのやり方だ。

 

この世界で学生やっていると暗い話には事欠かないが、結局、研究や勉強そのものがどう楽しいと思えるか、なんだろう。それが見つかれば、生活の不安は常に付きまとうとはいえ、それでも元気にやっていけるものだ、と信じたい。

 

放置の挙句

大体において、こういう場合ブログ閉鎖とかするのだけれども、過去の文章読んでも「いいこと書いてるな」と自分で感じるくらいには年を取ったので、そのまま残して、こうして思いついたら近況を書く、というのでもいいかなと思っている。

 

最後の記事が2016年の大みそかだった。

あの後元日も研究室にいた。相変わらずだ。

 

2017年は研究室の体制が変わり、ある意味でいろんな自由が利くようになった部分は多い。面白い後輩たちを研究室に迎えることもでき、研究室旅行もするなど、学生としての運営としてはまずまず(それでも悩みは尽きないが)ではないかと思っている。

 

研究と言えば、4月に研究発表、5月に学振DCの申請書を書く過程で、自分が(少なくとも博論において)何をどのように論じるべきかの方向性は見えてきたように思う。相変わらずやりたいことは山ほど思いつくのだが、そこからどこに注力すればいいかの目途は立ってきたようだ。今年は、原典はあまり読めていないが、刺激的な研究に多く出会えていると思う。「歌」と「美術」、その境界に立つ「詩」。この路線を続けていきたい。12月には予備論文の提出がある。

 

来年に在外研究の可能性が出てきた。とにかく外国で勉強したかったので、この機会はとても嬉しい。指導教官と相談しているが、個人的には中世ラテン文学の勉強ができる環境が望ましい。独特の言葉だと思えるので、それにどっぷり浸る時間が欲しい。もちろん、ネオの方も読まないといけないけれども。いろんな野望があるけれども、ここでは割愛。

 

今年の語学で一番スリリングなのはやはりセム語。古典シリア語と聖書ヘブライ語の授業を聴講させてもらっている。聖書ヘブライ語については独習でテキストの半分以上には進めてきた。全く見える世界が違ってくる。これがあるから語学はやめられない。あとは、とあるきっかけで中期エジプト語もかじる機会を得た。今月の中旬からまた講読に参加する。あれも自分の言葉の世界を広げてくれた。目の前を飛んで行った雀を見て、ヒエログリフに見えた瞬間、自分がどうかしたのかとは思ったが。

 

色んなきっかけで他の研究科の院生とも仲良くなれた。勉強を楽しく思う人に、学年とかは関係ないと思っているけれども、それでも少し年が近い学生と話せるのは、それはそれで安心する。そして、自分も研究を頑張らないと、と思う。勉強会も立ち上げた。どう進んでいくかはまだ見えないが、面白くする、ことを念頭に突き進んでみたい。

 

たぶん、派手に遊んだとか、旅行したとか、彼女ができたとか、結婚したとか、なんかに優勝したとか、そんな華々しい面白さや楽しさは期待していない。けれども、少なくとも今の勉強できる時間は、たまらなく楽しく、刺激的で、退屈しない時間だ。こういう時間があと何年出来るかわからないけれども、最後まで面白がっていたい。

 

で、その面白さが少しでも誰かに伝われば、それが一番だと思っている。

1年放置したのは、その1年が案外充実していた、ということだろう。

次はいつになるのか。