古今伝授とか
古今伝授なるものについて、興味が湧いている。
学的なものが、秘儀として師から弟子に伝えられる伝統は、ちょうど自分が古典語の読解で師匠の先生に読み方を教わってきたのと通じる部分がある。古典語の文法は普通のレクチャーを通じて習得したが、読み方はそのパターンを先生との講読で習ってきた気がする。読解自体が困難な古典文学の教授方法が、一種の秘儀的性質を帯びるのは、案外当然のなり行きなのかもしれない。
そうなるといわゆる「ホメロス学」に、そうした秘儀的な教授があったのかが気になる。おそらく、そのような教授はあったものと思われる。しかも、割と長く。それを近代の言語学が古層のギリシア語として取り上げ、そのイメージのもとに現代の我々は、そのテキストに接しているのだけれども、謎めいた暗がりの中の、古典教授は魅力的だと妄想してしまう。
発表構想を考える
7月末に公で発表機会を得たので、その構想を立てていかないと、と思っていた中で、2週間後にゼミ発表が急遽決まったので、少し急がないといけなくなった。
細かいトピックとして気になることを、一連の流れの中に置いて、ストーリーを形成する。なるべく多くの証拠を重ねることで、論を飛躍させない。言いたいことの40%で発表する。注意事項はそんなところか。
論文の掲載も、仮にではあるが、できそうなのでとにかく形にしておかないと。
誕生日でした
31回目の誕生日を迎える。
誕生日らしいことは先週土曜日にしたので、今日は通常営業。ブルクハルトを今さら読み始めた。
ことさら、31歳の抱負とか改まる必要はないけど、「楽しい勉強をする」ことができれば、それが一番だと思う。もう少し具体的にはヘブライ語の能力を少しでもつけたい。
(古典ギリシャ語もだけど)
基本、研究室にいて、土日も勉強してるか、本読んでることがほとんど、と友人に言ったら「プライベートないやん」と驚かれた。本人はそうとは思ってない。(そもそも研究室在室時間=勉強時間というわけではない)楽しくやっているのだから、オンオフを考える必要がないのだろう。この中で研究に価値付けを図れれば、と思う。
学部生で一人、文学作品の聴覚的な性質について古典作品を題材に試みている学生がいる。真面目な学生だ。
思えば、2回生の頃の自分も同じような関心から、勉強が始まった。結果、歌のようだから、という理由でラテン語を専門にすると心に決め、それから10年弱。チューバとの付き合いが9年程度だから、もうその付き合いを越えていた。変な比較かもしれないけど、自分のなかでは外国語は楽器のよう。チューバをラテン語に持ち替えることは、チューバを、ユーフォニアムに持ち替えることに等しい。ヘブライ語や古典ギリシャ語然り。
その学部生のテーマに役立つものはないかと、色々読んでいるなかで、2回の頃の自分を思い出していた。多分、あの頃の自分は「全部思い通りにいく」と世界を舐めていた。そこから真逆の「世界なんて絶望しかない」と思っていたのが、20代後半。30代の今は、「なら、その絶望で遊んでみよう」くらいのスタンスに変わった。そう考えると、思いの外、世の中は面白いことに溢れている。
研究書の一節の、短い一文。
研究室の他愛もない会話。
どうしようもなくめんどくさい書類。
雨で、しなだれきってる木々。
なかなか沈まなくなった日。
コロッケだけやたら売れ残る総菜屋。
書ききれないけど、自分が思っていた以上にこの世界は面白いと思う。31になったけど、もう少し生きて、色んなものをみたいと感じる。
明日からも、頑張ろう。
ヴィーダ第2巻読了
何とか誕生日までに2巻は読み終わりたいと目標をたてたが、その割になんやかんやと色んなことに手を出していたら、今日がラスト一日になってしまったので、研究室に籠って、スパートをかけた。20時頃に無事2巻読了。これで、気持ち的に楽に誕生日を迎えられる。
武器の戦争ではなく、言葉の戦争のように描かれていること。二人称で、場面描写を行って、目撃者としての読者が意識されていること(古典作品にも多いけど)。相変わらずの比喩の使用。人物の心情表現。気になることはやっぱり多いテキストだ。
ヘブライ語の独習
ヘブライ語の授業が一番重要な演習のある水曜日になっていたため、今年度は受講できなかったので、今はエクスプレスの古典ヘブライ語を少しずつ進めている。
今日の昼休みに学部生とも話題になったのだが、言語の独学は結構難しいものだ。まずモチベーションの維持が困難。授業やスクールで時間やお金を負担していれば、少しは続きやすいものだが、独学はそれがない。
発音は不安にならざるを得ないし、言語によっては文字もままならない。
幸い、自分の古典ヘブライ語へのモチベーションは、まだもっている。構造が全く異なる文法や文字だからこそ、色々な発見が楽しくなるときが多い。前置詞や人称接尾の考え方は興味をひく。
ヴィーダの歴史記述について、なにかと気付きが増えてきた。出エジプトのエピソードに今日は出くわした。この歴史記述の多さをどのように分析し、ひとつの構造として描くことができるか。
聖書と歴史記述、叙事詩
ヴィーダを少しずつ読み進めているが、興味深い表現によくぶつかる。固有名詞はさほど多くないにで、流れはすっきりとりやすい。
聖書に記載のある歴史をどのように叙事詩に仕上げるか。規範としてのウェルギリウスは、それでもやはり異教徒だ。ウェルギリウス受容をめぐる議論の一部は、参照できる研究書がある。一方で聖書そのものの歴史記述について実際のテキストに当たりながら考えてみたい。1巻では神殿における記述。2巻ではムーサに代わる存在を設定している。慎重に異教的古代の神々は退けられている。そうした存在が可能にする叙事詩は、古代からどのように隔たっていくのか。
読み進めていくなかで、すこしずつ問題点がクリアになっている気がする。