古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

さようなら、ゲッティンゲン。

本当はこの前の記事でドイツ滞在中の投稿はやめにしようと思っていた。

けれども、さっき夕食から帰宅する途中で、どうしてももう一度書いておきたくなったので、これで今回のドイツ滞在関係の最後の投稿にしたいと思う。

(「読んでるよ!」というコメントももらえたし)

 

さっきまで、クラスメイトだったゲッティンゲン大の研究員に誘われて、彼の家族と一緒にレストランで食事をしてきた。彼は私がクラスで出会った最初のクラスメイトであり、授業最初の日から最後の日までドイツ語はおろか英語も怪しい私にやさしく、紳士的に接してくれた。多分、彼がいなければこんなにこちらの授業を前向きに受けられなかったのではないかと思う。

今日もせっかくの招待にもかかわらず、不完全で要領を得ない会話しかできない私にゆっくりと分かりやすいドイツ語で話してくれた。彼の2人の子供はとても元気で臆面なく私にドイツ語と英語で色々聞いてくる。答えに困る場面も彼が色々と助けてくれた。

 

人の縁とは不思議なもので、地球規模でみれば「出会う確率が1パーセント未満」みたいな人間の方が、実際に出会った人間よりもはるかにはるかに多いにもかかわらず、それでも何かの拍子で「出会ってしまった人」というのがいる。このことは別に日本だけに生きていても事情は変わらないはずだが、十数時間のフライトを経てはるばるやって来た全く異国の地でこの経験をすることで、その人の縁の不思議(と切なさみたいなもの)を痛切に感じるところとなった。おととい、昨日、今日と何度か拙いドイツ語で「別れの挨拶」を繰り返すたびに、「ああ、もしかしたらこの人には次にあえないかもしれない」との思いが強くなり、かろうじて表現を覚えた「wiedersehen」が不思議な重さを持っているのを感じた。こう思っているのがたとえ自分だけであったとしても、別にそれでいい。

 

多分(いな間違いなく)、これまでの人生で「無駄に放棄した出会い」や「雑な対応しかしていない相手」がたくさんいる。過ぎたことはどうしようもないが、このことを少し悔いた。これほどにも「さようなら」が重いとは思っていなかった。これで日本に帰って自分の性格が治っているとも思えないが、もう少し「さようなら」をまともに言える人間にはなってもいいかもしれない。

 

こういうのはやっぱりもっと若くして体験すべきだったかも。

だけど今さらでも体験できてよかった。

「1か月程度で何を悟った気でいるんや」とも言われそうだが(事実そうだと思う)、これだけの学びを得たことを幸福に思いたい。

 

 

さようなら、ゲッティンゲン。