古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

授業全日程終了。

たった今、最後の授業が終わった。受講証明を先生から受け取り、6人(途中から5人)の小さなクラスでのドイツ語トレーニングは終了した。

 

授業後に先生にドイツ語で書いた手紙を渡した。先週末の授業が終わった後に、自分がいくら感謝の気持ちを持っていても、今の自分のドイツ語の会話能力ではその感謝の気持ちの3分の1も伝わらないかと思い、それならばと昨夜多少時間を掛けて(それでも拙いのには変わりはないが)メッセージカードにドイツ語のメッセージをしたためたものを準備していた。ドイツ語が拙いのと、結構恥ずかしいくらいストレートに感謝を書いているのでどこにも上げることはしないが、しかし、これでちゃんと伝えたい気持ちは伝えられたのではないかと思っている。

 

思えば古典語の勉強ばかりしてきた自分には「話す(聞く)語学」は必ずしも重要なものと思われていなかった。何よりも「読める(できれば書く)」ことがまず第一であり、それ以外の領域の学習は後手後手になっていた。それを何とかできればと思いっ立ったのが今回のゲッティンゲンへの短期の研修だったわけだが、「外国人として生きること」と「言葉が伝わらないこと」がどういうことなのかを身をもって知ることになった。私より若くても海外経験が豊富な人からすればこんなこと当たり前すぎることかもしれないが、30過ぎた今になったとしても、この感覚を得られたことは大事なことだと思う。

要は「生まれなおした」感覚である。言葉が伝わらない以上、最終的には表情やジェスチャーや声色など、より「幼児的」な表現に訴えるしかない。クラスは総じていわゆる社会人がほとんどだったが、母語でない学習言語を話す(私も含めた)受講生は一様に抽象度が低い、子供のような表現に頼らなければ、「昨日の生活」さえまともに伝えることができない。とりわけ日本語を母語にする自分にはそもそもの言語感覚が違いすぎているので、クラスの進行の足を引っ張っていたと思う。(ただ、カタールからの学生は母語アラビア語だから、一概に母語のせいにもできないけれど)

とにかく、私はドイツで幼児のように生きていたのだと思う。だから、頭の中の難しいことを考えている自分と、表現が極端に幼稚にならざるを得ない自分の距離がストレスの原因になっていた。外国にあってその言語を学ぼうとする学習者にとって避けることのできないことだと思う。

 

ただ、この学校はそういったストレスへの配慮がとても行き届いた環境であった。外国語学習への理解がとても進んでいる証拠だろう。それは授業の中における方法論にも感じることができた。(もちろん、この前提にはこの学校に通う人たちのそもそものモチベーションの高さもあるだろう、言うまでもなくクラスへの集中力や取り組みの態度は日本の大学の比ではない)いわゆる「アクティブ・ラーニング」の効果について考えるきっかけにもなった。これは自分の教育的な関心。

 

日本に帰ったら再び仕事と古典語の日々に戻る。それでもやっぱり古い言語が一番好きだ。ただ、ドイツ語を話す/聴く感覚はこれからも培っていきたい。10月からは毎週土曜午後にゲーテの教室に通うことにしている。週1でこの9月の密度からするとスカスカにはなるが、それでも1回3時間程度のクラスなのでプラスにはなるはずだ。

 

 

こういう勉強はもっと早くに始めないと…と言われそうな気がするが、ここまで来たら、誰が何を言ってきても自分の中では、「死ぬ前に初めてよかった」くらいに思うようにしている。何事も。

 

 

あと二日したら金曜の朝一にゲッティンゲンを出発する。