古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

朗誦の学問への憧れ

この前9月から日課で続けていた聖書ヘブライ語の教科書を一巡した。

思えば9月にその勉強を始めて以来、ラテン語を読まない日はたまにあったが、聖書ヘブライ語を読まない日は一日も無かったくらいには継続していた。

ただ、ここで終えるのももったいないと、昨日から『創世記』を原文で読み始めた。

 

とりあえず遅々たる歩みだが、これがめっぽう面白い。新しい日課になりそうだ。

 

みたいなことを昨日の夕方に指導教官に話した。

すると今日の昼過ぎに指導教官がコピーの束を持って研究室に現れた。その束をコピーしてくるようにと指示をされたのでそのコピーを見ると、それは聖書ヘブライ語テキストの文構造に関するテキストの一部であった。

コピーをするやその場でレクチャーが始まった。

どのような秩序で、聖書ヘブライ語テキストが構成され、それがどのようにテキストに書かれているかの説明をがっつりされた。

ただ、これが想像以上に興奮を覚える内容だった。

いわゆる古典語によるテキストだが、そのレクチャーを終えてみると、明らかにそれは楽譜のように見えてきた。「声にするための」テキストとして聖書が書かれていることを強烈に認識させられた。

(今まで取り組んでいたテキストにもその言及はあったのだけれども)

 

古典語は(特にこの手の聖典の関わる言語は)口語としては使われなくても、やはり朗誦される言語としてはある。朗誦による言語の現われは、もちろん書き言葉やいわゆる会話とも違う、全く別の現われをしているはずである。

で、文化圏によってこの朗誦の技術が確かに伝承されている。

そういう知識としては知っていても、しかし、実感を持てなかった事実を再確認させられた。

 

この朗誦の伝統って、古典語文学にとってかなり大事なトピックになるはず。

明日から新しい視点をもって、『創世記』原文にゆっくり取り組みたい。

 

ああ面白かった。