古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

楽しい方法

文学をやっている割には、小説とか詩とかあんまり読んでないところが自分の中で微妙なひっかかりになっているのは事実だが、かと言ってよほど気に入ったものでない限り、小説は読んでいて寝てしまう。こういう人間が文学を研究しているのだから、不思議と言えば不思議かもしれない。

 

ただ、(一応)「研究」していると興奮することが多い。それは大体の場合、原語で読んでいる時に起こる。自分の場合はとにかく古典語なので、全くスピーディーには読めないが、たまに「あれ?」と思う箇所に出くわすとどきどきする。今日もそういう箇所にぶつかった。(こういう場だから、具体的に何の作品の、どういうところかは書かないけれども)

 

古今東西、世界中の無数の言語で、文学はさまざまに溢れているのに、「外国文学研究」を志す学生が「日本語でアクセスできるもの」を対象にしている傾向はあんまり良くない、と個人的には思っている。(もちろん、しっかり原語のテキストを踏まえて研究している人もたくさんいる。ただ、翻訳がある安心感はたぶんとても大きいのだろう。)

 

「鑑賞」や「趣味の読書」ではなく、「外国文学研究」で扱うなら(時代を問わず)全く翻訳がない作品こそ、やる意義があるように思えてならない。日本語訳が無いのは、その作品が「読むに足らない駄作」であるからではなくて、「これまでの日本語話者にたまたま知られていなかった」からであり、その中に面白い作品があることは間違いない。もちろん、駄作もあるだろうが、それは日本語の作品でだってあふれかえっているので、今更文句を言うべきものではないだろう。むしろ、その「つまらなさ」を説明しようとするところに新しい「研究」のきっかけがあったりするものだ。

スピードはなくったって、発見は必ずある。「急がば回れ」「Festina Lente!」じゃないけども、ある意味一番堅実な方法に思えている。

 

歴史の人はこの辺が(専門にしている地域時代にも依るだろうが)たぶん当たり前で、状況が必ずしも良くないテキストに日々接している。もちろん、翻訳なんてないものが圧倒的に多い。だからこそ、研究として言えることが「発見」できるのだろう。(もちろん、既に翻訳されたテキストの新解釈だって重要な仕事)

 

翻訳がある作品にだって、まだまだ研究の余地があることはわかっているが、自分にはどうも(翻訳を頼り切ってしまう怠惰さが自分自身の中にあるからだが)、「何かを見つけた!」という経験がない。これはあくまで個人的な経験則だが、あんまり自分の周りではわかってもらえない。ただ、こういった意識で毎日古典語を読んでいて、「わからない」とは思っても「つまらない」と思ったことはないので、この方向性はあながち間違っていないと思う。そして、やっぱり自分にとって楽しいと思えるのはこのやり方だ。

 

この世界で学生やっていると暗い話には事欠かないが、結局、研究や勉強そのものがどう楽しいと思えるか、なんだろう。それが見つかれば、生活の不安は常に付きまとうとはいえ、それでも元気にやっていけるものだ、と信じたい。