古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

ロシア映画、そしてシュニトケ

今日は朝から東西線に揺られ、長尾駅のアートサロンまで。ロシア語の先生のお誘いでロシア映画の観賞会に行く。中短編のアニメーション作品2つと、長編作品1つ。

長編作品「コミッサール」の音楽がシュニトケで、映画が始まった瞬間からいかにもシュニトケ、という音楽が鳴る。

ちょうど行きの電車で、(映画の音楽については全く知らないなかでたまたま)シュニトケ交響曲1番を聴いていた。誰かが昔読んだディスコグラフィーに書いていた「迷子の交響曲」という表現があまりに気に入って、自分にとって重要な音楽になった。
帰属感のなさがこの音楽を聴いていて、私には一番切実に響くところ。鐘の乱打とオーケストラの無秩序はそれで作品が始まるのだけれども、曲のフィナーレもそれで終わる。どこにも「帰る」ことができない音楽だといつも思う。そういう点で、帰属感、「帰る」場所の温かさと痛みを歌った武満の「ファミリーツリー」は対極にいるのかもしれない。いつも言うけど、両方とも好きな音楽。

シュニトケの音楽は「帰る」ところを追いかける音楽。帰れるかどうかはわからない。ユダヤ人を扱ったこの映画に最適な作曲家だろう。ただ映画内で「帰る」場所を見いだしたのはロシア人だった。それが(原作と異同があるらしい)家族=一人息子であった。民族問題、政治性を無視しているが、今のところ家族像の表現の一つとして映画を見ていた。
民族、国家共同体のメタファーみたいなことは書かない。

家族共同体には基本的に懐疑的である自分には、あるいは、あのようなより生々しい関係性としての家族の表現の方が受け入れやすいのだろうか。結局、誰も「帰る」ことなく映画は終わる。