古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

語る、語られる、それで?

いつも憚らず言ってしまうが、正直自分は「古典学徒である」と思ったことはほとんどなくて、博士に再度進学してからは、古典語学徒として、古典からは距離をとる、古典をできる限り相対化できる場所に立とうと努めている。多分、自分の専門性はラテン語にあるのだけれども、古典からずいぶん隔たった人文主義者の叙事詩読んだり、サンスクリットヘブライ語など他の古典語に時間を割いたりしているのも、そういう試みの一部なんだろう。

そういえば、文学への思い入れもそんなにない。ギリシア神話に至っては今でも必要に迫られて「調べる」対象で、その物語を延々と語る、あるいは特定の神に「萌える」ことも皆無である。
神話絡みの論文で、興奮したのは印欧語比較言語学の領域のものだったので、やっぱり自分は文学向きでもないのだろう。でも、エリアは間違いなく文学だ。

こういうことを書くと絶望しかなさそうだが、別に絶望はしていない。古典語で書かれた、非古典文学を読むのは、案外文学研究にとってメリットが大きいと感じている。

文学にとっての「権威」とは何か?
あえて古典語を創作の言語として「選ぶ」ことに、文学の素材としての言語観が見えてくるのではないか?
みたいなことが見えてくる、気がしている。

一方で、やっぱり自分が「音楽の人間」だと思うときがある。結局叙事詩を読んでいつも考えていることは、「全部読んだ(聴いた)人間は何を感じるの?」と「どんだけ詩人はこの歌に没入してるの?」という問いかけだ。自分の音楽へのアプローチに近いこの発想がずっととりついている。修士の時のルカヌスも完全にそのアプローチだった。クリオの話とか完全にそうだし、今となっては、あの結論さらに大きく広げられると思っている。

今日、発表原稿をある程度まで仕上げた。書いた原稿は依然錯綜しているが、自分の立場は定まった。結局、「語り、聴く」文学しか自分には読めない。そして、古典に対しては、若干の破壊衝動もある。壊れないでしょうけど。

バーンスタインの「ミサ」、最近特によく聴く。
あのクライマックスは、伝統の否定にも見える。そこに感動を覚える自分は、やっぱり古典はできない。
あー、でもその後にメシアンの交響楽作品とか聴いている辺り、正統的なものも望んでいるのか。わからん。

自分語りでした。