古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

ゼミ発表今期3回目

ゼミ発表を終える。相変わらず発表回数は多く、今期3回目。ペースメーカーになるから、いいとは思っているけれども。

今度の研究会の原稿を読み上げる発表で、何とか40分くらいの報告になったが、今日のコメントを活かしきると1時間を越える可能性が見えてきた。越えないけど。

結構面白い、と自分では思っていることを、他人と共有するのは難しい。文学作品の面白さなんて、きっと共有しきれない最たるもので、多分、私がホメロスを面白いと言えないのと同じように、ミルトンが面白くないという人も多いのだろう(変な比較)そもそも、自分の好き嫌いはあんまり他人の評価を気にしないけど。つまらないものは「つまらん‼」と威勢よく言うスタイルは変わらない。
(自分で「つまらない」と思っていることをやる文学研究は「早く辞めろ」と思ってしまう。多分色んなものを無駄にしている。)

何でこんなことを書くか。
なかなか、オーディエンスに自分の知的興奮を伝えられていなかったと感じたから。
そして一方で今日のゼミで、面白そうで興奮するアドバイスを先生にもらえたから。

ゼミを「しばく、しばかれる場」としてもいいけど、一方で「有益だけど知らんかった知識を得る場」としても、もっと認識してほしい。そこに院生も学部生もないはず。少しずつそういう発言が増えてきたと思うけど。もっと、その風当たりを良くしたい。

原稿書いてみれば

明日のゼミでは書き上げた原稿の半分をまず検討し、残り半分は概要を急いで確認するにとどめることに。今日の時点で原稿が22ページにおよび、まだいれていない翻訳を挿入すれば、25ページ程度になると想定されるからである。一旦、方向性を示す発表をして、その後の展開を検討してみたい。

3回目ぐらいの原稿で最初よりは論旨はスッキリしてきたので、もう一息という感じ。こればっかりは回数の問題だと感じる。明日まずは乗りきりたい。

とりあえず早く研究会を済ませて、優雅に語学したい。

語る、語られる、それで?

いつも憚らず言ってしまうが、正直自分は「古典学徒である」と思ったことはほとんどなくて、博士に再度進学してからは、古典語学徒として、古典からは距離をとる、古典をできる限り相対化できる場所に立とうと努めている。多分、自分の専門性はラテン語にあるのだけれども、古典からずいぶん隔たった人文主義者の叙事詩読んだり、サンスクリットヘブライ語など他の古典語に時間を割いたりしているのも、そういう試みの一部なんだろう。

そういえば、文学への思い入れもそんなにない。ギリシア神話に至っては今でも必要に迫られて「調べる」対象で、その物語を延々と語る、あるいは特定の神に「萌える」ことも皆無である。
神話絡みの論文で、興奮したのは印欧語比較言語学の領域のものだったので、やっぱり自分は文学向きでもないのだろう。でも、エリアは間違いなく文学だ。

こういうことを書くと絶望しかなさそうだが、別に絶望はしていない。古典語で書かれた、非古典文学を読むのは、案外文学研究にとってメリットが大きいと感じている。

文学にとっての「権威」とは何か?
あえて古典語を創作の言語として「選ぶ」ことに、文学の素材としての言語観が見えてくるのではないか?
みたいなことが見えてくる、気がしている。

一方で、やっぱり自分が「音楽の人間」だと思うときがある。結局叙事詩を読んでいつも考えていることは、「全部読んだ(聴いた)人間は何を感じるの?」と「どんだけ詩人はこの歌に没入してるの?」という問いかけだ。自分の音楽へのアプローチに近いこの発想がずっととりついている。修士の時のルカヌスも完全にそのアプローチだった。クリオの話とか完全にそうだし、今となっては、あの結論さらに大きく広げられると思っている。

今日、発表原稿をある程度まで仕上げた。書いた原稿は依然錯綜しているが、自分の立場は定まった。結局、「語り、聴く」文学しか自分には読めない。そして、古典に対しては、若干の破壊衝動もある。壊れないでしょうけど。

バーンスタインの「ミサ」、最近特によく聴く。
あのクライマックスは、伝統の否定にも見える。そこに感動を覚える自分は、やっぱり古典はできない。
あー、でもその後にメシアンの交響楽作品とか聴いている辺り、正統的なものも望んでいるのか。わからん。

自分語りでした。

久しぶりに

友人たちとの食事の場で、言われたので更新。

神話学研究会が近づき、原稿を先週末に書き上げた後、後輩にそのチェックを依頼して、今週が終了。今日の昼まで文献を読んで、その説の裏付けになり得る言及を見いだしたとともに、これからの研究テーマの主軸をどこにおくべきかと考えてしまった。

biblical epicに軸を置くか、post-classical epic in "classical language"のようなものをたどってみるか。自分の中ではユダヤ学への関心は日々大きくなる一方。

現実的には博士論文のレベルでは一貫した流れがなくてはならない。と思ったときに、このことは常に配慮しないといけないと思った。
どのみち、この一生では多分抱えきれない疑問を抱いてしまった私は、ずっとこの疑問を増やし続けてしまう。来世、もし人間に生まれ変われるなら、もう一回(今度は迷いなく)勉強したい。

人間に生まれ変われないなら、カマキリになって、メスに食べられたい。

古今伝授とか

古今伝授なるものについて、興味が湧いている。
学的なものが、秘儀として師から弟子に伝えられる伝統は、ちょうど自分が古典語の読解で師匠の先生に読み方を教わってきたのと通じる部分がある。古典語の文法は普通のレクチャーを通じて習得したが、読み方はそのパターンを先生との講読で習ってきた気がする。読解自体が困難な古典文学の教授方法が、一種の秘儀的性質を帯びるのは、案外当然のなり行きなのかもしれない。

そうなるといわゆる「ホメロス学」に、そうした秘儀的な教授があったのかが気になる。おそらく、そのような教授はあったものと思われる。しかも、割と長く。それを近代の言語学が古層のギリシア語として取り上げ、そのイメージのもとに現代の我々は、そのテキストに接しているのだけれども、謎めいた暗がりの中の、古典教授は魅力的だと妄想してしまう。

大変な期間が一度落ち着く

先週末の学会がおわり、今日まで授業予習なども含め、バタバタだった。今週末は少しゆっくり過ごしたい。

イディッシュ語の予習が、今のところ、一番不馴れで結構大変なのだけれども、折りに話されるユダヤ人の歴史の話は非常に興味深い。それ目当てに予習して授業に行っているのだが、今日の授業でそれが自分だけではなかったと知ることが出来た。
最近のテーマが聖書に関係することもあり、ヘブライズムに正面から取り組める知識をつけたいと思っている。聖書解釈に関することと、古代末期から中世のキリスト教文学を整理することが、現状の調査内容。

週末ゆっくり読書しよう。

発表構想を考える

7月末に公で発表機会を得たので、その構想を立てていかないと、と思っていた中で、2週間後にゼミ発表が急遽決まったので、少し急がないといけなくなった。

細かいトピックとして気になることを、一連の流れの中に置いて、ストーリーを形成する。なるべく多くの証拠を重ねることで、論を飛躍させない。言いたいことの40%で発表する。注意事項はそんなところか。

論文の掲載も、仮にではあるが、できそうなのでとにかく形にしておかないと。