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古典語学と、その他。

お勉強と興奮の記録。

2016年終わり

完全放置していました。呟くことも始めてしまったので、仕方がない。

 

あと数時間で2016年も終わりますが、大みそかの今日も普通に研究室にいました。結局やることと言えば、古典ギリシア語ラテン語サンスクリット語をできるだけ丁寧に読む勉強と研究論文を読むこと、普段と全く異なりません。それでも年末の静かな大学で、淡々と読むのも楽しいので、これで良しとします。明日も頑張ります。

 

2016年は大学に戻ったことがとにかく最大の出来事であり、いつまで続くかわからない人生レベルでも大きな変化でした。思いもよらないこともいくらか、いやふんだんにありましたが、それでも生きているのだから、来年もこの調子でしょう。勉強が好きな人が周りに多くいる環境は、自分に合っていると思う一方で、昔は気にはなっていなかったのですが、社会を多少なりとも経験した身には耐えられないこともあり、それはそれで自分が大人になったんだな、と思うことにしています。

 

2017年も、勉強主体です。アウトプットもしていかないといけない。論文という形で自分のアイデアを公にすることが最低限。研究室運営についても、学生が「気持ちよく」「存分に」研究や勉強できる環境を作ることを目指して、気づきと実行を重ねていく。すでにいくつか計画はあるのだけれども、年度末にかけてなんとか。

 

語学については、ヘブライ語に真正面から取り組む。知れば知るほど旧約聖書、ユダヤ人の世界には心が惹かれる。

 

とにかく、勉強することは面白い。

この楽しさを体験できた2016年には感謝したい。

明日から2017年。

明日もやりたい勉強がたくさんある。

 

 

ロシア映画、そしてシュニトケ

今日は朝から東西線に揺られ、長尾駅のアートサロンまで。ロシア語の先生のお誘いでロシア映画の観賞会に行く。中短編のアニメーション作品2つと、長編作品1つ。

長編作品「コミッサール」の音楽がシュニトケで、映画が始まった瞬間からいかにもシュニトケ、という音楽が鳴る。

ちょうど行きの電車で、(映画の音楽については全く知らないなかでたまたま)シュニトケ交響曲1番を聴いていた。誰かが昔読んだディスコグラフィーに書いていた「迷子の交響曲」という表現があまりに気に入って、自分にとって重要な音楽になった。
帰属感のなさがこの音楽を聴いていて、私には一番切実に響くところ。鐘の乱打とオーケストラの無秩序はそれで作品が始まるのだけれども、曲のフィナーレもそれで終わる。どこにも「帰る」ことができない音楽だといつも思う。そういう点で、帰属感、「帰る」場所の温かさと痛みを歌った武満の「ファミリーツリー」は対極にいるのかもしれない。いつも言うけど、両方とも好きな音楽。

シュニトケの音楽は「帰る」ところを追いかける音楽。帰れるかどうかはわからない。ユダヤ人を扱ったこの映画に最適な作曲家だろう。ただ映画内で「帰る」場所を見いだしたのはロシア人だった。それが(原作と異同があるらしい)家族=一人息子であった。民族問題、政治性を無視しているが、今のところ家族像の表現の一つとして映画を見ていた。
民族、国家共同体のメタファーみたいなことは書かない。

家族共同体には基本的に懐疑的である自分には、あるいは、あのようなより生々しい関係性としての家族の表現の方が受け入れやすいのだろうか。結局、誰も「帰る」ことなく映画は終わる。

結婚式、8月も終わり。

友人の結婚式に出席。細やかに気配りの利いた気持ちのいい式であったと思う。同級生たちも(全員と話したわけではないけれども)元気そうで何より。

8月も終わろうとしている。とは言え、基本は研究室で勉強ばっかりしていたので、あっという間だった気がする。
夏休みの勉強の柱は現状2本。ヴィーダの詩法の翻訳。あとロシア語。この2本を軸に、少しずつ独仏のトレーニングとギリシア語サンスクリットのトレーニングを組み合わせている。後期は詩法についてコメントしていきたいので、9月中には全体の下訳を作りたい。

ロシア語は将来のため。非ロマンス語文化圏、あるいは東欧ユダヤ文化圏に接する上で必要な気がしている。ここからポーランド語、リトアニア語にも手を広げたい。ロシア語4週間半分まで終わった。イディッシュ語の復習も少しずつだが進んでいる。

帰宅して一息つけたので、もう少し勉強する。
国際言語運動の歴史、という英語の古い本が最近一番楽しい。ショスタコーヴィチのピアノ聴きながら。

研究発表終了。

今日は研究会にて発表。6年ぶりだと思うと少しくらくらした。何とか時間は想定タイムに収めた。

少々のことで動じない、ふてぶてしさを更に増していた自分を自覚して、あぁ自分は小物だな、と感じてしまった。まぁそれは個人的な感想。

気付かなかったことを、たくさん教わったのは嬉しかった。無知を恥じてへこむ暇があるなら、その間に勉強してる方が絶対にいい。だから、明日も研究室で次の発表の作戦をたてる。ちょっと気持ちが盛り上がってきた。

「結構、自己満足しちゃってるよね?」と言われた。正直している。発表が6年ぶりにできたこと、自分がなんか「全然これ面白いやん‼」と言える対象のことを話せたこと、あと人間的な何か、がその原因だろう、ということにしておく。

明日から、切り替えて頑張ろう。やるべきこと、やりたいことがまた見えた。

再出発的な

明日、小規模だが研究会発表である。28ページの資料はいささか多すぎるのだけれども、仕方ない、と勝手に完結している。

面白さが、どれだけ伝えられるだろうかと考えながら原稿を書いてきたけれど、明日その反応が確認できる。割と楽しみな自分がいる。自信ではなくて、「早く考えたことを聴いてほしい」という気持ち。根本的な欠陥もあるだろうけど、いつも思う。その失敗で人は死なないと。迷惑すら掛けないと。そう思ったら、なおのこと楽しみになってきた。

この後の方向性は見えてきている。夏休みに準備して後期に形にしよう。

ゼミ発表今期3回目

ゼミ発表を終える。相変わらず発表回数は多く、今期3回目。ペースメーカーになるから、いいとは思っているけれども。

今度の研究会の原稿を読み上げる発表で、何とか40分くらいの報告になったが、今日のコメントを活かしきると1時間を越える可能性が見えてきた。越えないけど。

結構面白い、と自分では思っていることを、他人と共有するのは難しい。文学作品の面白さなんて、きっと共有しきれない最たるもので、多分、私がホメロスを面白いと言えないのと同じように、ミルトンが面白くないという人も多いのだろう(変な比較)そもそも、自分の好き嫌いはあんまり他人の評価を気にしないけど。つまらないものは「つまらん‼」と威勢よく言うスタイルは変わらない。
(自分で「つまらない」と思っていることをやる文学研究は「早く辞めろ」と思ってしまう。多分色んなものを無駄にしている。)

何でこんなことを書くか。
なかなか、オーディエンスに自分の知的興奮を伝えられていなかったと感じたから。
そして一方で今日のゼミで、面白そうで興奮するアドバイスを先生にもらえたから。

ゼミを「しばく、しばかれる場」としてもいいけど、一方で「有益だけど知らんかった知識を得る場」としても、もっと認識してほしい。そこに院生も学部生もないはず。少しずつそういう発言が増えてきたと思うけど。もっと、その風当たりを良くしたい。

原稿書いてみれば

明日のゼミでは書き上げた原稿の半分をまず検討し、残り半分は概要を急いで確認するにとどめることに。今日の時点で原稿が22ページにおよび、まだいれていない翻訳を挿入すれば、25ページ程度になると想定されるからである。一旦、方向性を示す発表をして、その後の展開を検討してみたい。

3回目ぐらいの原稿で最初よりは論旨はスッキリしてきたので、もう一息という感じ。こればっかりは回数の問題だと感じる。明日まずは乗りきりたい。

とりあえず早く研究会を済ませて、優雅に語学したい。